インゴルシュタットでの「フォーリングス」
1945年の終わり、旧駐屯地のインゴルシュタットにアウトウニオンの主要メンバーがスペア部品の倉庫を設立しました。この場所が1949年9月3日には以前の会社から独立した製造会社となるアウトウニオンGmbHに生まれ変わったのです。同年に配達用のバンやバイクの製造がはじまりました。
4リングスのロゴの元、初期の頃は既に実証済みのDKWの製品である2ストロークエンジンが生産されていました。当時、戦後の剥奪の時代には、頑丈で信頼性の高い車やバイクが求められていたため、配達用バンのDKW F 89 Lや オートバイのDKW RT 125 Wなどが開発され、インゴルシュタットの製造工場で生産されていました。同時に、DKW乗用車の開発も進んでおり、最終的には1950年の夏に、ラインメタルAGが所有していたデュッセルドルフの工場を借りて生産がはじまりました。
1954年以降、フリードリッヒ・フリックが徐々にアウトウニオンGmbHの株式の大部分を取得していきました。彼は、アウトウニオンを中期的にサポートできる強力なパートナーを探していたのです。そして1958年4月、ダイムラー・ベンツAGがアウトウニオンの株式の88%を取得し、翌年にはインゴルシュタットの会社は完全な子会社となりました。
プレミアムブランドとしての再出発のきっかけになった「Audi 100」
2ストローク エンジンへの依存、機種に対する方向性の欠如、そして批判的な報道により、1960年代初頭からDKW車の販売は下降する一方でした。そんな中、ダイムラー・ベンツは、インゴルシュタットのテクニカル ディレクターとしてエンジニアのルードヴィヒ・クラウスを任命。彼が一種の「持参金」として持ち込んだ4気筒4ストロークエンジンの技術を1963年に立ち上がった新しい乗用車、DKW F 102に適用するよう命じました。
そして1965年、アウトウニオンにとって戦後初の4ストロークエンジンとして、この新しい車の生産がはじまりました。これにより新しい時代の幕開けとなり、それに伴って新しい製品の名称が求められました。こうして、伝統に富んだ「アウディ」の名が復活したのです。
アウトウニオンの「アウディ」は当初、型式名として知られ、広く宣伝されて大きな成功を収めました。この機種は1972年まで生産され続け、途中でいくつかの技術的およびスタイルの変更が加えられました。しかし、1965年には会社がフォルクスワーゲンヴェルクAGの子会社になり、インゴルシュタットには別の意味で新しい時代が訪れていました。新しい経営陣は、インゴルシュタットのエンジニアが独自の機種を開発することを拒否しており、インゴルシュタットの生産能力をVWビートルの製造に利用しようとしていたのです。
しかし、当時の開発責任者であり取締役会のメンバーでもあったルートヴィヒ・クラウスは水面下でアウディの新しい機種の開発を進めていました。最終的にヴォルフスブルク本社の経営陣が認めたこの車は、1968年11月にインゴルシュタットで国際的に発表されました。その名はAudi 100です。Audi 100はそれまでのDKW車の伝統を完全に振り払った独自の車でした。新しいアウディは大成功を収め、開発者たちが正しかったことを証明したのです。また、Audi 100は、アウトウニオンが独自のアイデンティティを持続させるのにも役立ちました。